ポルシェ博士とハイブリッドカー 日産の最新技術は115年前の技術?

くるまるです。

今回は、
フェルディナンド・ポルシェ博士
についてお話ししていきましょう。

フェルディナンド・ポルシェ
【1875年~1951年】

ポルシェ博士には
たくさんの功績があるので、
数回分けて
お話ししたいと思います。

その中でも今回は、
ポルシェ博士と
電気自動車やハイブリッドカー
についてです。

意外に思われるかもしれませんが、
電気自動車の歴史は
1830年代からと非常に古く、
あのトーマス・エジソンも
ヘンリー・フォードに
構想を語っていたそうです。

ポルシェ博士と
ハイブリッドカーについて
詳しく調べているうちに、

とんでもない事実を
発見してしまったので、
この事もお話したいと思います。

ところで、
インターネット上の資料や文献によっては
フェルディナン・ポルシェ
と表記していることもあります。

Ferdinand Porsche

アルファベットだと
『d』ですし、

ポルシェジャパンのホームページでは
フェルディナンドと
表記されていますので、
私もフェルディナンドと
表記したいと思います。

フェルディナンド・ポルシェの博士号

まず、
フェルディナンド・ポルシェ博士は
大学を卒業していません。

後に実用的な功績が称えられ、
名誉博士号を授与しています。

  • 1917年、ウィーン工科大学から名誉博士号
  • 1924年、シュトゥットガルト工科大学から名誉工学博士号

これが大学を卒業していない
フェルディナンド・ポルシェが
「ポルシェ博士」
と呼ばれる理由です。

電気についての知識

フェルディナンドは
1875年9月3日、
オーストリアで
ブリキ細工職人の家庭に生まれます。

父親は高度な技術を持つ職人
だったので、
その仕事を子供にも
継いでもらおうと
仕事を手伝わせていました。

そして、
フェルディナンドの兄が
早死にしてしまったこともあり、
フェルディナンドにかかる
期待は大きく、
とにかく父は
ブリキ細工の技術を
学んで欲しいと考えていました。

ところが、
フェルディナンドは
電気に非常に興味があり、
電器についてもっと勉強したい
と考えていました。

これを聞いた
フェルディナンドの父は

「ブリキ細工以外のことは考えるな。」

と厳しくあたりました。

それでもフェルディナンドは
日中の仕事を終えた後、
こっそりと屋根裏部屋で
勉強や実験を続けたのでした。

しかし、
屋根裏部屋の実験室がある日、
父にばれてしまい、
父は怒りにまかせて
部屋に押し入ってきました。

この時に父は
バッテリーを踏みつぶし、
中に入っていた硫酸で足を負傷。

父の怒りは増すばかりでした。

一方、
母はフェルディナンドが
厳しい日中の仕事を終えた後、

熱心に電気について勉強、
実験する姿を見ていたので、
父を説得して
電気が学べるウィーンの学校へ
行けるように口添えを
してくれたのでした。

ですが、
元々ブリキ職人以外の道を理解せず、
硫酸で怪我までしてしまった
父の許しは得られませんでした。

しかしながら、
勉強がしたいという強い願いと、
ブリキ細工に関わることも
学べるということで、
仕事をしながらの
工業高校の夜間部への通学には
許可を得られたのでした。

その後もフェルディナンドは、
もちろん
電気についての勉強は辞めず、
ついには発電施設を作り上げ、
当時まだまだ普及していなかった
電灯を自宅に灯したのでした。

電灯を灯した家は
街でも1番か2番か
といわれていたそうです。

これにはさすがの父も
認めざるを得なかったようで、

ついにウィーンにある
電気機器会社
ベラ・エッガー
(Béla Egger、現在電気シェーバーで有名なBRAUN)

での就職を許したのでした。

ウィーンへ上京

1894年、18歳になった
フェルディナンドは
ベラ・エッガーで働くことになっても、
向学心は衰えません。

仕事をする傍ら
ウィーン大学工学部に聴講生
(授業は受けられるが、単位は得られない)
として授業に参加していました。

この頃から
自動車技術への関心を持ち始めて、
1897年 22歳の時、
モーターに関して特許を申請しました。

翌年の1898年、ベラ・エッガーで
アイデアマンとして
スピード出世していた
フェルディナンドのところに
転機が訪れます。

電気自動車『ローナー・ポルシェ』

ベラ・エッガーで
検査室長を任せられていた
フェルディナンドのところへ
電気自動車用モーターの
修理依頼が入ります。

ローナー社からの依頼でした。

ヤコブ・ローナー・アンド・カンパニー(Jakob Lohner & Company)

はオーストリア王室御用達の
高級馬車メーカーでしたが、

時代の変化を感じ
馬車から
電気自動車の開発を
1896年からはじめた会社でした。

当時ガソリンエンジン自動車は
騒音が大きかった為、
王室や富裕層が乗りつけるには
不向きだったので、
馬車と同等の静粛性を持つ
電気自動車が
最適と考えた為です。

このローナー社からの
電気自動車モーターの修理を
きっかけに
フェルディナンドは引き抜かれます。

ローナーに移った
フェルディナンドは
車輪の内側にモーターを組み込み、
駆動させる電気自動車を
考案しました。

この方法は
インホイールモーター
といって現在でも
『ホンダ FCV』
といった電気自動車や
ハイブリッドカーで採用されたり
試作検討されたりしています。

そして完成したのが下の写真

ローナー・ポルシェです。

出典:http://www.favcars.com/

この車は現在もウィーンの
産業技術博物館(TechnischesMuseum Wien)
に実車が展示されています。

定格 1.8kW(2.5 馬力)
定格での速度は 35km/h
最高速度は50km/h
1回の充電で50kmほど航続可能だったそうです。

フェルディナンドは
この電気自動車を改造し、
レースで飛躍的な新記録を
打ち立てたり、
4輪駆動の4人乗りバージョンを
加えたりもしました。

出典:Wikipedia

 ハイブリッドカー『ローナーポルシェ ミクステ』

電気自動車は
バッテリーが重いので坂道に弱く、
バッテリーの蓄電が
なくなってしまえば走行不能
となってしまうため、

航続距離を伸ばすには
さらにバッテリーを搭載し、
どんどん重くなってしまう
という問題がありました。

この問題点を改良しようと
フェルディナンドが考えたのが

  • バッテリーの数を減らし、軽量化。
  • そのバッテリーが無くなったスペースにエンジンと発電機を搭載する。

というものでした。

エンジンは常時稼働させ、
発電機を回し、
走行用の電力と
充電用の電力を確保。

そして1901年、
フェルディナンドが
26歳の時に完成したのが

ゼンパービバ(Semper Vivus)

という車でした。

写真はポルシェ博物館が
2011年に1901年当時の資料や図面を元に
復元したものです。

出典http://www.favcars.com/

エンジンによって
発電機で得た電力は
走行用のインホイールモーター
に接続され、

余剰電力は
バッテリーに
充電される方式でした。

発電機はスイッチによって
エンジンスターターにも
使用可能でした。

これって、
つい最近日産がノートに
搭載して話題になった

e-POWERとほぼ同じです。

細かい制御や
エンジンストップなど
違いはあるのでしょうけど、
基本的な構造は同じです。

ちなみに、

ゼンパービバ
が開発されたのは
115年以上前

ニッサンのHPに書いてある

世界に先駆ける日産の
電気自動車技術が、
またひとつ
次世代のエコカーを
発明しました。

という宣伝文句が
なんだか霞んで見えます。

フェルディナンドは
1902年から兵役につきましたが、

その際はローナーの
ミクステ(ハイブリッド車)に
オーストリア皇太子を
載せて運転手を
務めたといわれています。

メルセデス・ミクステ

フェルディナンドが開発した
電気自動車および
ハイブリッド自動車に関する
ローナー社所有の特許は
1906年にダイムラー社に
譲渡されました。

ダイムラー社は
ローナー社から部品供給を受けて
『メルセデス・ミクステ』
という車を開発、
製造しました。

前輪駆動が中心だった
ローナー社のミクステに比べて
後輪駆動車が中心で、
ビール運搬車、
ごみ収集車など
都市で使用するトラックやバス、
ワゴン車や消防車に
採用されました。

カーマニアだった総統閣下

それから30年程、
お話を飛ばします。

フェルディナンドは
ドイツのシュトゥットガルトに
ポルシェ事務所(Dr. Ing. h.c. F. Porsche GmbH)
を設立しており、
自動車事業について
コンサルタントや
設計の外注を受ける
仕事をしていました。

その後、
ナチス政権下のドイツで
アドルフ・ヒトラーから
依頼を受け、

フォルクスワーゲン(日本語で『国民の車』)
の開発をはじめます。

ヒトラーは実をいうと、
熱心な自動車マニアでした。

なので、
フェルディナンドのことを
「ポルシェ博士」と敬愛しており、
側近であっても
「マイン・フューラー(総統閣下)」
というかしこまった呼び方をするなか、
フェルディナンドだけは
「ヘル・ヒトラー(ヒトラーさん)」
と気軽に呼べるほど
親密な関係を築いていた様です。

気の短いことで知られる
ヒトラーですから、
さぞ周りにいた側近や親衛隊は
ひやひやしたでしょうね。

着々と進められた
フォルクスワーゲン計画でしたが、
第二次世界大戦が始まると、
計画はストップされました。

途中まで進められていた
フォルクスワーゲンの製造は
軍事用車両にスイッチされ、
ヒトラーから
フェルディナンドへの依頼も
戦車へとスイッチされました。

戦車にも採用された
ハイブリッドシステム

レオパルト VK-3001(P)

フェルディナンドは
早速開発をはじめ、
新型のサスペンションシステム
を搭載した

1号特殊車両
「レオパルト VK-3001(P)」
を製作、
実験を繰り返していました。

しかしレオパルトには
最後まで砲台が載せられず、
計画もそのまま
破棄されてしまいました。

ポルシェ ティーガー VK4501 (P)

そして、
次に依頼を受けたのが
『重戦車ティーガー(タイガー)』
の設計でした。

ティーガーの設計は
ディーゼルエンジンで有名だった
ヘンシェル(Henschel)社
にも依頼され、
ポルシェ社との
競作(コンペ)になりました。

フェルディナンドの考案した
ティーガー戦車は
当時のドイツ製戦車の弱点であった
トランスミッションを
改良するのではなく、
「いっそトランスミッションを無くしてしまえ。」
という発想で
生まれたものでした。

そこでモーターを動力とすれば
制御が容易になり、
トランスミッションが不要
という考えで、
ガソリンエンジン2基によって
発電機を回し、
その電力でモーターを駆動させる
ゼンパービバと同じ方式の
ハイパワー版ハイブリッド車でした。

普通私たちが想像する戦車よりも
砲塔が前寄りになっています。

これはエンジン2基掛けに加えて、
発電機、モーターといった動力を
後ろ半分にまとめた為
車体の後ろ半分が
非常に重たくなってしまい、
砲塔を前寄りに装備して
バランスをとっているのです。

ヒトラーと国家元帥にもなった
ヘルマン・ゲーリングは
フェルディナンドのことを
ひいきにしていたので、
ポルシェ ティーガーが
採用されると思われましたが、

  • 空冷エンジンであった為、発熱が解決できない
  • 信地旋回(キャタピラーを片方だけ動かしての転回)ができない
  • モーターを造るには砲弾などで需要が高かった銅を大量に消費するので量産できない

といった問題を抱えたまま、

ヒトラーが見守る中
比較テストが実施され、
結果的にポルシェ ティーガーは

不採用。

でもフェルディナンドは
採用されることを
確信していたので

もう生産開始してた。

発注を受けていた
クルップ社には
90台の試作車両が完成し、
100台分の装甲板が納入済み。

たぶん、
これにはヒトラーも
焚きつけていたのでしょう。

もったいないので
改良を加えて実戦投入しました。

その名も
ティーガー(P)戦車駆逐車 フェルディナンド
でした。

エレファント 重駆逐戦車(ティーガー(P)戦車駆逐車 フェルディナンド)

出典:Wikipedia

ティーガー(P)戦車駆逐車フェルディナンドは
後に改良が加えられ
『エレファント 重駆逐戦車』
と名前を変更しています。

発熱が問題だった空冷エンジンは
マイバッハ製の水冷エンジンに
積みかえられていましたが、
左右2基掛けモーターの
同調をとることは難しく、

  • まっすぐ走らない。

また、
モーターがノイズを発生させるため、

  • 無線の感度が非常に悪い。

といった問題は
抱えたままでした。

しかしながら
ソ連との戦いでは
対戦車駆逐車として大活躍し、
ドイツの駆逐車=フェルディナンド
という代名詞になってしまうほどの
衝撃を与えたのでした。

超重戦車 マウス

と、まぁフェルディナンドは
戦車となると失敗ばかりでした。

でも、ヒトラーはよほど
『ポルシェ博士』
が好きだったんでしょう。

「主砲も装甲も当時の技術で100t級の超重量級戦車を作る!」

これをフェルディナンドに
依頼します。

当時最大とされた戦車は
70t級でしたが、
ヒトラーは100tどころか
120t級が必要である
と考えていました。

ここでもまた2社による
競作(コンペ)になりました。

今度は
ポルシェ ティーガーを試作していた
クルップ社とポルシェ社の競争です。

今度の戦車は
フェルディナンドがこれまで作った
戦車の集大成のような戦車でした。

  • サスペンションにはレオパルト VK-3001(P)で開発した新型サスペンション、縦置き型トーションバーを採用。
  • 動力はやはりエンジンで発電機を回し、モーターで駆動。ダイムラー・ベンツ製航空機用水冷エンジンを採用して放熱とパワー不足を改善。

フェルディナンドは
この図面をクルップ社よりも
早く提出し、
ヒトラーを大変喜ばせました。

ヒトラーは更に
リクエストを加えた上で、
ほぼポルシェに内定を出します。
リクエストは
以下のような内容でした。

  • 下部車体の装甲を100mm、
  • 主砲を37口径15cm砲(砲身長(15x37)555cm)もしくは70口径10.5cm砲(砲身長(10.5x70)735cm)にする

※拳銃と違って口径は
砲身長を求める数値になります。

そして、
またヒトラーの前で
比較テストされ、

ポルシェに軍配が上がりました。 

更にヒトラーからの
リクエストが加わり、

  • 主砲に12.8cm砲と7.5cm砲を同軸装備する

そして遂に完成したのが

『超重戦車 マウス』です。

ナチス軍としては
銅の資源不足が解決できていなかった為、
製造を反対する声も上がった様です。

出典:Superewer [Public domain], via Wikimedia Commons

この巨大な戦車に似つかわしくない

「マウス」

という名前は開発の当初

「マンムート(Mammut、日本語でマンモス)」

という名前でしたが
情報漏洩した際に計画が
バレバレになってしまうので、
「マウス」
という重量級が
想像もつかない名前にしたようです。

マウスは150台分の生産が
進められましたが、
次々に変更が加えられ、
どんどん作業が遅れたため、

実際に戦車として完成したものは
試作1号車と
試作2号車の2台だけです。

そのうち試作2号車は
侵攻するソ連の赤軍を
迎え打つために出撃しましたが、
動力に不具合が発生。

更にガス欠となってしまい、
身動きが取れなくなってしまいました。

そして敵からの
鹵獲(ろかく)を防ぐために
その場で爆破処理されてしまいました。

しかし、爆破処理の努力もむなしく、
試作2号車は砲塔が使えるという事で
鹵獲されてしまいます。

試作1号車の方も
ほぼ無傷で試験場に放置された状態で
鹵獲。

マウスはモスクワへ輸送され、
そのまま終戦を迎えました。

まだまだあります

以上がポルシェ博士と
ハイブリッドカーについてのお話でした。

いかがでしたでしょうか?

まだまだポルシェ博士には
レースカーの製作や
フォルクスワーゲンの開発裏話
などお話がたくさんあります。

今後アップしていきますので、
是非読んでみて下さいね。

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コメント

  1. フェルディナンド・ポルシェ博士の伝記業績の濃密な記事です。私の愚鈍な頭脳ではPorsche Tiger 等に使用されたlongitudinal torsion barの作動原理がいまだに理解できません。個人的に私はVK4501(P)が大好きです[側面のシルエットは戦後のポルシェのスポーツカーのそれですよね?]が、ゲルマン人の優越意識もさらに上を行くHitlerが軽蔑していたスラブ人の製作した戦車群に敗退することとなります。