ポルシェ博士と最高速度750km/hの車 ドイツの威信をかけた開発の裏話

こんにちは、くるまるです。

今回もポルシェ博士の
功績についてです。

ポルシェと聞いて
真っ先に思いつくのは
スポーツカーでしょう。

第二次世界大戦後、
ポルシェ博士の息子
フェリー・ポルシェによって作られた

ポルシェ356やポルシェ911は
現在のポルシェ社における車にも
その技術やデザインの面影を
色濃く残しています。

もちろん、
息子フェリー・ポルシェが
356や911を作る以前、

ポルシェ博士は
数々のスポーツカーや
レーシングカー、

さらには
世界一の最高速を目指した車の設計、
制作に関わっています。

それではお話を進めましょう。

レースカーを設計、自分で運転していたダイムラー時代

フェルディナンド(ポルシェ博士)の
開発した電気自動車と
ハイブリッド自動車に関係する
ローナー社の特許が1906年に
ダイムラー社に譲渡されました。

ダイムラー社はローナー社から
部品供給をしてもらい、
トラックやバスといった
ハイブリッドカーを製造しています。

同じく1906年に
フェルディナンドも
ローナー社を退職して、
ダイムラー社の
オーストリアにある子会社
『アウストロ(オーストリア)・ダイムラー』
に身を移し、

テクニカル・ディレクターという
自動車設計を統括する地位に就きます。

ダイムラー社はこの時
ヨーロッパ最大級の
自動車メーカーですから、
若干31歳でこの地位に就いた
フェルディナンドの
天才っぷりがうかがえます。

1909年には「マヤ」
というレースカーを制作、
自らハンドルを握って
プリンツ・ハインリヒ・レース
というレースに出場し、
見事優勝を飾りました。

▲アウストロ・ダイムラー・マヤ
出典:作者 不明 (Automobile museum in Vrativislavice, CZ) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

ちなみに息子のフェリー・ポルシェは
このプリンツ・ハインリヒ・レース
の最中に生まれ、

フェルディナンドは
息子が生まれたことを電報で知ります。

翌年1910年にも
プリンツ・ハインリッヒ・レースで優勝。

このプリンツ・ハインリッヒ・レースは
毎年コースが変更される長距離レースで、
1910年のレースは1945kmにも
及んだそうです。

レースの功績以外にも
オーストリア軍の
ラントヴェーア大佐からの
アイデアをもとに、

後に
「ラントヴェーア・トレイン」
と呼ばれる
「オーストリア・ハンガリー電車」
を開発しました。

▲オーストリア・ハンガリー電車
出典:www.stuttcars.com

フェルディナンドが開発した
ハイブリッドシステム
を活かしたその電車は、
先頭車両のエンジンで発電し、
後続するすべての
トレーラー車の動力に
伝導されて駆動し、
列車を動かすというものでした。

ラントヴェーア・トレインは
電車とは言っても
ソリッドゴムのタイヤを装着して
道路を走れるようになっており、
特別なステアリングシステム
によって、
町や山を通る狭く
曲がりくねった道路でも
6台までのトレーラーを
正確に進ませることができました。

さらに、
ソリッドゴムのタイヤに
鉄製のディスクを
ボルト固定することで、
鉄道の線路も
走行することができました。

鉄道として使用する場合は
最大10台のトレーラーを
使用できたようです。

こうした実績もあり、
1917年フェルディナンドは、
アウストロ・ダイムラーの
ゼネラルマネージャー
(日本の会社で言うと部長ぐらい)
になり、
オーストリア皇帝より勲章が授与され、
ウィーン工科大学から
名誉博士号を授与されています。

大排気量から小排気量レースカーの時代へ

1906年
フランスで発祥したと言われる
グランプリレースはその後、
参加する自動車メーカーが開発を勧め、
自動車の高速化が急激に進みました。

ここで、
安全を期するために
フォーミュラ(規格)
が設けられました。

これが現代のフォーミュラ1
に至るまで
様々なルールが
更新されているというわけです。

1906年には車体重量を
1000kg以下とだけ定め、
大排気量エンジンの搭載を
規制しようというものでした。

1914年になると
初めて排気量が規制されて
4500cc以下のエンジンを
搭載する規格になります。

このことは限られた排気量で
最大限の出力向上を図ることが
自動車エンジニアの課題となり
さらなる技術発展を進めました。

そして1922年には
排気量2000cc以下、
車重650kg以下
という規格が定められ、

1922年 フェルディナンドは
裕福なオーストリアの映画製作者、
サッシャ・コロラトの資金提供の元、
『サッシャ』という
1100ccの小さなレーシングカーを
制作しました。

▲アウストロ・ダイムラー・サッシャ
出典:作者 Saschaporsche [Public domain], ウィキメディア・コモンズより

『サッシャ』は同年、
イタリアのシチリアで開催された、
タルガ・フローリオ・レースで
見事第1位と第2位を勝ち取りました。

ダイムラー本社への栄転とドイツでの博士号授与

翌年の1923年
フェルディナンドはドイツにある
シュトゥットガルトの
ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト
(ダイムラー社の本社)に、

テクニカルディレクター、
そして役員として招かれました。

ダイムラー社とベンツ社は
1924年に合併して、
『ダイムラー・アンド・ベンツ社』
が誕生。

ちなみに
『メルセデス』は
車やエンジンの
ブランドネームのようなもので、
ダイムラー社に
出資したオーストリア人から、
出資条件として
娘の名前である
『メルセデス』
の名前をを開発した車や
エンジンに付ける事を
約束した為だそうです。

同年1924年の
タルガ・フローリオ・レースでは
フェルディナンドが設計した
『メルセデスPP』
が優勝しました。

▲メルセデスPP
出典:www.stuttcars.com

メルセデスPPは2,000ccエンジンに
スーパーチャージャーを装備して
126馬力 / 4500rpm、
重量921kg、最高速度120km / h

とスペックだけ見れば
現代の自動車としても遜色のないものが
完成しています。

この車の功績は
スポーツカー界のみならず
学界からも高く評価され、

フェルディナンドは
シュトゥットガルト工科大学からも
名誉工学博士を授与されました。

次にフェルディナンドは
『メルセデス・モンツァ』
という新しいレーシングカー
をレースに導入させました。

▲メルセデス・モンツァ
出典:www.stuttcars.com

▲メルセデス・モンツァをレース場に運ぶ『トランスポーター』の様子
出典:www.stuttcars.com

メルセデス・モンツァは
メルセデスで初めて
8気筒エンジンを搭載した
レースカーで、
2000ccのガソリンエンジンに
スーパーチャージャーを搭載。

170 馬力 / 7000rpm、重量780 kg
最高時速はなんと180 km / hです。

さらに1927年には
ドイツの
ニュルブルクリング・グランプリで
メルセデス・ベンツの
レーシングカー
『Sシリーズ(S26/S120/S180)』
を投入。

1-2-3位を独占しての勝利
をおさめました。

メルセデス・ベンツ・Sシリーズ
出典:www.stuttcars.com

翌年の1928年も
ニュルブルクリング・グランプリで
メルセデス・ベンツは
1-2-3位を独占します。

この時出場したレースカーは
『SSシリーズ(SS27/SS140/SS200)』
と呼ばれ、
『Sシリーズ』よりも強力なバージョンです。

「S」は「スポーツ」を表し、
「SS」は「スーパースポーツ」
を表すものでした。

1928年にSSのショートバージョン
『SSK( SuperSports Kurz)』
も導入され、
さらなる更なる出力向上と
192km/hの最高速度を誇りました

ダイムラー・ベンツ社との確執

1910年代から1920年代ごろは
第一次世界大戦に敗れた
オーストリア=ハンガリー帝国、
ドイツ帝国が崩壊し、
人々は貧しい生活を
強いられました。

こうして起こった
不景気をみて、
フェルディナンドは
小型車が市場に求めれると考え、
ダイムラー経営陣に対して
小型車の開発を提案
していましたが、
提案を受け入れられたことは
ありませんでした。

その上で、
イタリアグランプリで
ドライバーが死亡する事故が
発生してしまい、
ダイムラー社の経営陣は
事故の責任を
フェルディナンドに押しつけ、
それ以降のレース参戦の禁止を
言い渡したのでした。

これにフェルディナンドは
非常に怒り、
1928年ダイムラーを退職しました。

ダイムラー・ベンツを辞職すると、
チェコの自動車メーカーである
『タトラ』と、
オーストリアのメーカー
『シュタイア』から
早速誘いを受けます。

1929年シュタイアの
テクニカルマネージャーとなり、

その後わずか10週間で
2,000cc6気筒エンジン
を積んだ車両
「タイプ30」を完成させます。

この車は
シュタイアの主力生産車に
なりましたが、
シュタイアの経営状況は悪く、後に
アウストロ(オーストリア)・ダイムラーに吸収合併されることになります。

経営体制が嫌で辞めた
ダイムラー社の傘下で
働く気にもなれず、
フェルディナンドは独立を決めます。

会社設立と独立

フェルディナンドは
シュタイアからの退職を期に、
シュトゥットガルトの中心部に
1931年フェルディナンド・ポルシェは
デザインやエンジンや車両の
コンサルティングの会社

有限会社ポルシェを設立します。

(hc F. Porsche GmbH,Konstruktionen und Beratung für Motoren- und Fahrzeugbau)

同社は、弁護士の
『アントン・ピエシュ』と
ドイツグランプリで
メルセデス・モンツァを優勝に導いた
レーシングドライバー
『アドルフ・ローゼンバーガー』
とによって共同設立されました。

この頃には息子
『フェリー・ポルシェ』も
ボッシュ社(Bosch)の
でっち奉公を終えて、
フェルディナンドと
一緒に働き始めています。

様々な自動車メーカーから
依頼を受けて自動車や
エンジンを開発する一方、
フェルディナンドは
リアエンジン、
リア駆動式という
レイアウトが理想的だと考え、
流線型小型大衆車の開発を
独自にしていました。

ですが、
協力するメーカーが現れず、
独自の研究は資金難によって
中断されてしまいます。

これが後の
フォルクスワーゲン開発に
反映されたのは
言うまでもありません。

そして1931年には、
「ポルシェ式独立懸架」
という名前で
トーションバー・サスペンションが
特許として登録されています。

フォルクスワーゲンとは別の依頼

フェルディナンドは
1933年アドルフ・ヒトラーから
フォルクスワーゲン(市民の車)
の設計を依頼されました。

ようやく、
ずっと思い描いてきていた
リアエンジンリア駆動式の
大衆向け小型車を
豊富な資金で開発するという、
またとないチャンスに
フェルディナンドは飛びつきます。

実はフォルクスワーゲン計画と同時期に
ヒトラーからは
もう一つ依頼を受けています。

ヒトラーの国外情報戦の方針は
ドイツの技術の高さを
外国に示すことでした。

その為にはレースの世界でも
ドイツの車技術を見せつけ、

グランプリで優勝しなくてはいけません。

ヒトラーの資金援助を受けた
『アウトウニオン(後のアウディ)』
からレーシングカーの開発を依頼され
ミッドシップ方式のレーシングカー
『Pワーゲン』
(ワーゲンは車という意味なので“ポルシェの車という意味でしょう)
を開発します。

同時期にレース活動を止めていた
ダイムラー・ベンツ社も
ヒトラーからの援助を受けて
レーシングカー
『メルセデス・ベンツ・W25』
を開発。

豊富な予算と
高度な工作技術を投入した
この2つのレーシングマシンは、
軽量な車体にで
高出力エンジンで
次々とレースに勝ち、
その役割を果たしました。

この2台のレーシングカーは
ドイツのシルバー軍団
レース界では呼ばれ、

『メルセデス・ベンツ・W25』は
シルバーアロー

出典:By Michael Wolf [GFDL or CC BY-SA 3.0], from Wikimedia Commons

アウトウニオンの『Pワーゲンは」
シルバーフィッシュ
と呼ばれていました。

確かに魚に見えますが、
ちょっとバカにされてた??

最高速への挑戦

自動車の世界最高速記録については
意外なほど早期に
高速化を果たしています。

1909年ダイムラーと合併する前の
ベンツ社で
『ブリッツェン・ベンツ』
という車が完成し、

1911年には
228km/hを達成しています。

228km/hを記録したブリッツェン・ベンツ

出典:By Thesupermat [CC BY-SA 3.0], from Wikimedia Commons

1909年といえば日本ではやっと
ダンロップが進出してきて
空気入りタイヤの生産が
はじまった頃ですよ?

その後1925年、
イギリスの自動車メーカー
『サンビーム』が製作した
『サンビーム350HP』で、
242km/hの最高速度記録をマーク。

1927年には
『サンビーム 1000 HP』で、
327km/hの最高速度を
達成させています。

327km/hを記録したサンビーム・1000HP
出典:By David Hunt [Public domain], from Wikimedia Commons

この最高速記録に挑もうと
ヒトラー(ナチス)が
指示して製作したのが

『メルセデス・ベンツ・T80』です。

▲メルセデス・ベンツ・T80のボディカウルを外した写真
出典:www.stuttcars.com

設計、開発は
フェルディナント・ポルシェ。

製造はダイムラー・ベンツ社です。

開発を開始した1937年当初は
最高時速550km/h
を目標にしていましたが、

同じく1937年ドイツで恒例の
アウトバーン最高速度記録イベント
『Record/Speed Week』で
フェルディナンドが製作した
『Pヴァーゲン タイプC』
レーシングドライバーの
ベルント・ローゼマイヤーによって
401km/hを達成。

翌1938年の
『Record/Speed Week』には
オットー・ヴィルヘルム・ルドルフ・カラツィオラの
メルセデス・ベンツ・ W125レコードワーゲン』
による記録が
432km/hを達成。

そして、
このドイツでの記録を破ったのが
1939年イギリスのレースドライバー、

ジョン・コブによる
『レイルトン・スペシャル』での
592km/h達成でした。

▲奥に見えるのが 592km/hを記録したレイルトン・スペシャル

出典:By Birmingham Museums Trust (Birmingham Museums Trust) [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons

これを上回る
600km/hに最高速度目標を
設定しなおして、

T80の最終的な目標は750km/hとされました!

フェルディナンドは
ダイムラー・ベンツの
航空用V型12気筒エンジンを改造して、

排気量を44,000cc(!)

最高出力2,500馬力以上、
瞬間的には3,030PS馬力

という完全に
バケモノなエンジンを用意し、
後ろの四輪で駆動する六輪車に
エンジンはミッドシップとしました。

0.3~1.0mmの薄くて
硬いジュラルミン製ボディには
翼のようなものが
取り付けられました。

これはもちろん
空を飛ぶために揚力を生む役割ではなく、
逆にダウンフォース
(揚力の反対の力)
を生むためのものです。

車重は約2,800kg、全長約8.5m。

タイヤはコンチネンタル社が
700km/hに耐える
7.00/32インチサイズタイヤを
特別に開発したものが装着されました。

1939年、遂にメルセデス・ベンツ・T80は完成します。 

▲メルセデス・ベンツ・T80
出典:By Morio [CC BY-SA 3.0], from Wikimedia Commons

フェルディナンドは
数々の最高速度記録を
生み出すスピード狂の聖地
アメリカのユタ州
北西部に位置する
グレートソルト湖にある塩の平原、

『ボンネビル・ソルトフラッツ』
で最高速を計測するつもりでした。

ジョン・コブの
『レイルトン・スペシャル』592km/hも
このボンネビルで達成されています。
(ジョンコブは第二次世界大戦後1947年に記録を634km/hに引き上げています。)

しかし記録テストの指導者であった
ナチスのアドルフ・ヒューンラインは
フェルディナンドの考えに
首を縦に降りませんでした。

「T80はドイツ国内のコースを走って最高速度を記録しなければならない。」

と言うのです。

フェルディナンドによると
「アウトバーンでは道幅が狭すぎる」
ということなので、
ヒューンラインはアウトバーンを改造して
センターラインのない
全長10km、幅はわずか25~27 m の
コンクリート製直線コースを建設しました。

幅25m・・・
路面摩擦の小さいコンクリート・・・
750km/h・・・

どれだけ恐ろしいか
普通は気づくでしょうw

それでもナチスは記録コースに関して
フェルディナンドの意見に
耳を貸しません。

この特性コースを使って
恒例の最高速度記録イベント

1940年1月の
『Record/Speed Week』が
T80のお披露目&計測イベント
として
予定されました。

・・・がしかし、
第二次世界大戦の勃発によって
このイベントは中止。

T80に搭載されたエンジンも
航空機用エンジンでしたから、
外されて軍事航空機の方へ
回されました。

航空機エンジンが
取り外されたT80は、
フェルディナンドが
オーストリアのケルンテンに
移動して保管していました。

T80は戦火を逃れ、
現在はシュツットガルトの
メルセデス・ベンツ博物館に
展示されています。

つまり、
ナチスがつまらん意地を
張っていたせいで

T80は最高速度を
計測することなく
博物館入りしてしまっているんです。

こうして
メルセデス・ベンツ・T80
による
最高速度750km/hは
幻に消えたのでした。 

▲ドライバーが乗っている写真が残っているのでテストランはしてたっぽい。
出典:www.stuttcars.com

あとがき

3回にわたってお話ししました
ポルシェ博士でしたが、
いかがだったでしょうか?

ポルシェ博士の自動車開発に対する
情熱もすごかったですが、
ヒトラーの車への熱狂ぶりも
負けていませんでした。

また、
ハイブリッドカーや
スーパーチャージャーなど
今も残る技術が
思っていた以上に古くから
利用されていたのにも
驚かされましたね。

今後も面白い自動車に関わる人物を
見つけたら書いて行こうと
思いますので、
またぜひ読んでみてくださいね。

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