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くるくる!クルマ業界裏話

クルマに関する裏話をコソーリ教えるブログです

 

世界一のタイヤメーカー ブリヂストンはこうして創られた。17歳から経営をスタートさせた創業者 石橋正二郎

くるまるです。

今回はブリヂストンの創業者のお話です。

ブリヂストンは石橋さんが創業したからブリッジ(橋)ストーン(石)なんでしょ?

ということぐらいは皆さんご存知でしょう。

創業者である彼は自分の親や兄弟から反発や怒りをかいながらも、当時の常識を破り、画期的なシステムをたくさん取り入れてきました。

時には強引にも物事を進め、未来を見据え、絶え間ない努力を続ける姿勢。

そして『世の中に貢献しよう』という利他主義精神には学ぶべきところが多くあります。

それではお話を進めましょう。

 

石橋正二郎【1889年~1976年】

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正二郎は現在の福岡県 久留米市に生まれます。

久留米商業学校を卒業した17歳の時、正二郎は兄の重太郎と共に、父から衣類を取り扱う仕立物屋『志まや』の経営を引き継ぎます。

17歳の正二郎はこの時すでに

「やるからには全国的に発展し、世の中のためになる事業にしよう。」

と考えていたそうです。

【目次】

父から受け継いだ仕立て屋を『足袋専門』に独断で路線変更

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事業を引き継いだその年の暮れ、兄の重太郎は一年志願兵(学識者が食費や装具を自己負担で軍隊に入隊する代わり、通常3年の兵役を1年に低減される制度)として軍隊に入ります。

そのため、『志まや』の経営は正二郎に全て任されました。

『志まや』の事業内容はシャツやズボン下などの下着、足袋(たび)といったものを注文に応じて製造販売するものでした。

正二郎はこの様々な物を製造する事業内容を「効率が悪い。」と考えました。

そして、効率をよくするために『足袋専門業者』に路線変更してしまいます。

また、それまで日本では常識になっていた徒弟制(でっち奉公)を『給料制』に変更しました。

徒弟制では見習いとして技術を学べるかわりに、無給、無休という制度でしたが、正二郎は給料を支払い、労働時間を短縮、月に2回の休暇を与えたのです。

『足袋専門業者』、『給料制』どちらも17歳の正二郎が独断して

父に事後報告しました。

正二郎の父はカンカンに怒り、ひどく叱られたそうです。

しかし、正二郎はこの時「父には心配を掛けて申し訳ない。」と思った半面、

「新しい経営方針は必ずうまくいく。」

と確信があったので、そのまま新制度で事業は続行されます。

工場の生産効率を上げるため機械を導入

その後正二郎が確信した通り、志まやの経営は順調に伸び、兄が戻ってきてからはさらに新工場を建設して30人の新しい工員を雇い入れます。

また、この時には石油エンジンのついたミシンと裁断機を導入し、機械化によって生産効率を上げました。

こうして大胆な改革を起こした志まやは当初、1日に280足だった足袋の生産量を3年ほどで1日に700足にまで増やしました。

これには怒っていた父も大喜びしたそうです。

その後、父が亡くなり、兄の重太郎が二代目徳次郎の名前を襲名します。

低予算高効率のアイデア広告活動

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その後も志まやの経営は正二郎のアイデアと手腕で発展を続けます。

中でも宣伝については当時画期的なもので、かなり注目を浴びたようです。

当時宣伝広告といえば『大きな看板を立てる』か『新聞広告』でした。これらは非常に高額だった為、いくら志まやが好調だとはいっても費用負担が大きいものでした。

そこで、正二郎は費用負担を減らすために鉄板を自分で買ってきて、兄と一緒にペンキを塗り、看板を自作して店に立てました。

そして新聞広告の代わりには楽団を雇ってノボリを持ち歩き、街を練り歩くチンドン屋のような宣伝方法を用いたのでした。

自動車との出会い

正二郎は23歳になった1912年、初めて東京に行き、自動車に試乗する機会を得ます。

この時にも正二郎のアイデアと先見性は冴えわたります。

「宣伝に使える!」

こう考えた正二郎は、戻ってすぐに自動車の購入を兄と相談。

当時、自動車は志まやの製造機械すべての資産価値に匹敵する価格でしたが1台の購入を決定します。

運転手も東京から雇って、車に造花を飾ってのぼりを立て、チラシを配ったのです。

自動車は当時日本全国で354台、九州にはまだ1台も走っていないので、人々は自動車が走ってくる事に大変驚き、宣伝効果は絶大でした。

そして後に兄の徳次郎は、福岡県の運転免許所持者第一号になりました。

また、日本に入ってきたばかりの映画にも着目し、志まやの足袋製造工場の製造工程を映画化して、劇映画と同時放映、こちらの宣伝効果も高かったようです。

常識を覆した格安均一価格『20銭均一アサヒ足袋』

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正二郎は適正利潤は売上高の10%という考えを軸に、商品価格や製造コストの切り下げを努力し、人々が満足する商品づくりを念頭に置いていました。

その成果として、1914年、正二郎が25歳の時に発売されたのが

格安均一価格の足袋でした。

当時足袋はサイズごとに価格が違っていましたが、均一価格、しかも格安で販売したのです。この時に志まやの屋号も古いと感じていた正二郎は『アサヒ』と改めます。

その後続く不況にも低価格で販売していたアサヒ足袋は大きく揺れることはなく、1918年には300万足も販売するに至っていました。

アサヒ足袋は法人化してさらに『日本足袋株式会社』を設立します。

日本足袋は第一次世界大戦後の大不況に創業以来の経営危機にあいますが、正二郎の予見により、原材料の調整など対策をしていたため、倒産を免れます。

実は商品名だった『地下足袋(じかたび)』商品化

倒産は免れたものの、不況は続き、売り上げ低迷が続きました。

そこで正二郎は兄と新商品を考えます。

そこで考えついたのが『ゴム底の足袋』でした。

当時、履物と言えばまだまだ『わらじ』が主流でした。

わらじは耐久性が低く、1日履くとつぶれてしまい、毎日消費するというきわめて能率の悪い履物でした。

そのため農家では毎日自家製のわらじを編んでいましたが、間に合わないときは買う必要があり、足袋とあわせて履物は家計において大きな負担となっていました。

こうした世の中の不満点を見抜き、耐久性のあるゴム底足袋に需要があると正二郎は確信します。

改善が望まれていたゴム底足袋

ゴム底足袋は1900年代から大阪、神戸、岡山などで生産はされていましたが、ゴム底と布である足袋を縫い合わせる技術が低く、縫い糸がすぐに切れてしまって、耐久性がないことからあまり普及していませんでした。

1921年、32歳の正二郎はゴム製造会社からゴム底を仕入れ、生産をスタートさせましたがコストが高くなりすぎてしまうためゴム底の自社製造を計画します。

翌年1922年には社員を岡山に派遣し、ゴムの製造技術を学ばせ、製造機も購入します。

兄が買ってきたテニスシューズ

最大の課題であった縫い付けの技術については、兄の徳次郎が東京のデパートでアメリカ製のテニスシューズを見つけて買ってきました。

これをヒントに縫い付けではなく貼り合わせという方法で解決しました。

試作品を炭鉱で働く人々に提供したところ、踏ん張りやすく、滑りにくいと大好評。

1923年に実用新案権が確定し、販売を開始します。

この時につけた『アサヒ地下足袋』というネーミングで初めて使われた『地下足袋(じかたび)』という言葉は今現在、ゴム底足袋の事を指すようになっていますね。

地下足袋は耐久性があり、長持ちしましたので、それまで使用されてきたわらじに比べて家計への負担は約半分でした。しかも、毎晩わらじを編む必要もなくなったのです。

ゴム底の布靴 ズック靴(スニーカー)も生産

正二郎は

「 一般の履物は下駄や草履が多く用いられていたが、活動に不便で不経済、早晩進歩したものに代えられるべきものであった。」

「私がゴム底の布靴や長靴などを安価に供給すれば大衆の生活に益するにちがいない」

 

と考えていたので同じ年1923年から『ゴム底の靴』生産も開始しています。

その後、ゴム底靴の販売は爆発的に伸び、海外にも輸出されました。

その勢いは国際経済会議で日本製の靴に輸出制限がかけられたほどです。

 

靴事業での利益は新事業のために

さあ、ここからがタイヤの話ですよw

正二郎がゴム底靴の製造に取り掛かっていた1920年代にはすでに空気入りタイヤは自動車用タイヤとして世界では常識になっていました。

ファイアストンは1900年。

ミシュランは1889年。

ダンロップは1889年から設立され、1900年にはゴム会社として確立し、世界のリーダー的な存在になっていました。

ダンロップは1909年、既に日本の神戸で支社と工場を構えて進出しています。

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アメリカの自動車産業が急激に発展した為、アメリカのタイヤメーカーも同じく成長します。

アメリカの中でも1916年に世界最大のタイヤメーカーとなったのが1898年に創業したグッドイヤー社です。

以前ご紹介したグッドイヤー氏との関係は名前の由来だけでしたね。

後にこのグッドイヤーとブリヂストンは手を組むことになります。

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このように日本はゴムや、タイヤに関する産業について世界から大幅に遅れていたと言えます。

 

そして1920年代、徐々に日本国内でも自動車の数が増え始めます。

当時、タイヤと言えば輸入品かダンロップ社が神戸で生産する物しかありません。

正二郎はそんな中で将来的な日本の自動車産業発展を確信していました。

 

さらには

自動車産業の発展に貢献したい。

 

輸入品や外資に頼り切っているタイヤを国産にして逆に輸出して

外貨を獲得して国策に貢献したい。

 

という思いと、地下足袋やゴム底靴で築いた資本で

新しい産業を興したいという強い思い

がありました。

タイヤ事業は総スカン

自動車用タイヤ製造会社を創るにあたり正二郎は兄に相談しましたが、

反対されます。

社内の技師にも相談しますが、「難しく、多額費用を無駄にするかもしれない。」

と同じく反対されます。

ただ一人、正二郎の意見に協力を示した人物がいました。

九州帝国大学の教授でゴムの研究家だった君島教授でした。

君島教授は

「研究費として日本足袋の年間売り上げ相当100万円や200万円を捨てる覚悟があるのなら協力しましょう。」

と衝撃の言葉を正二郎にかけます。

しかし、正二郎は

100万円ほどの投資は困難ではないと考え、独断。

さっそく必要な機械や材料をアメリカから輸入します。

機械を発注後、技師にタイヤ製造技術の研究を指示して、1929年には機械を受け入れて設置する為の工場を本社事務所事務所南側に大実験室と称して準備します。

この最中に本社事務所は改装、正二郎は兄に代わって日本足袋の社長に就任します。

自動車用タイヤ製造について、社内の全幹部を集めた社長就任及び本社事務所新装の

祝賀会ではじめて公表します。

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祝賀会の就任の挨拶は以下のような内容でした。

「今日まで都合によって発表を見合わせておりましたが、目下建設中の大実験室の目的は自動車タイヤの製造です。」

「自動車用タイヤの代金は今、全て外国人に支払っています。将来、この代金はどんどんと膨れ上がり、全て外国人に占めれれるとなれば国家存立上の重大な問題と思います。」

「幸い、九州大学の君島教授の参加と当社技師の研究の結果、技術的確信を得たうえで春より製造作業ができます。」

 

と説明し、強引に自動車タイヤ事業を進行させます。

これに集まった幹部たちは大変驚いたことでしょう。

手探りではじめたタイヤ事業

試作には日本足袋の従業員が20名ほどがあたり、

タイヤ製造の知識、経験が皆無という状態で苦戦を強いられました。

苦労を重ね、翌年1930には試作1号が完成します。

日本足袋タイヤ部は各条件で試作を重ねる一方、販売についても市場調査とテスト販売、販路の確保を行っていました。

当時、タイヤ販売は輸入商社が輸入したタイヤが中心に取り扱われていました。

そんなタイヤを販売する小売店に売り込みへ行ったところで新参者には信用がない為、なかなか取り扱ってもらえません。

「足袋屋のタイヤか」とからかわれたこともあったそうです。

そこで浮かび上がったのが足袋を取り扱ってくれていた代理店です。

日本足袋の代理店では

「石橋さんが作ったものなら」

とタイヤを取り扱う部署を作ってまで引き受けてくれたのでした。

専門技術者の起用

試作とテスト販売を続けていく中で問題が上がったのは品質でした。

品質改善するためにはタイヤ専門の技術者が必要でした。

当時日本国内で信頼できるタイヤ製造の技術を持っているのは、神戸にあるダンロップの工場で働いているの技術者だけです。

そこで、ダンロップで働く技術者2人に声を掛け、その2人は日本の資金日本の技術世界一のタイヤを作るという日本足袋の信念に共感し、1931年に入社します。

命名、ブリッヂストン

実は社名については本格始動する前から正二郎によって決定されていました。

アメリカにタイヤ製造金型を発注する際に金型には製品のブランドや商品名を刻んでもらう必要がありました。

この当時、自動車に関するものはほとんどが外国製品でしたから日本製の物よりも外国製の物の方が良いものというイメージが強い時代でした。

外国製品並みの品質とイメージを付け、また、海外での輸出販売も念頭においていた為、英語の会社名、製品名を検討しました。

タイヤメーカーはダンロップ、ファイアストン、グッドリッチなど発明者や創業者の名前が元になっていた為、正二郎は自分の名前『石橋』を英語にした『ストーンブリッヂ』と初めに思いつきます。しかし、語呂が悪かったので『ブリッヂストン』として社名、商標名を決定させました。

そして1931年、正二郎が41歳の時に『ブリッヂストンタイヤ株式会社』が発足しました。

兄との共同出資で、社長は正二郎、兄の徳次郎は取締役相談役に就任しました。

信用第一の品質保証制度

こうして様々な問題を乗り越えスタートした『ブリッヂストン』

消費者に対する誠意のこもったサービスを理念として掲げ、不良製品は無料で新品と取替えるという徹底した品質保障制度を採用します。

後発であるブリッヂストンが他社と対抗するためには信用が重要であると考えた正二郎は損失覚悟で品質保証制度を採用します。

創業直後は熟練工も育っておらず、技術や研究も深く進んでいなかった為、製品不良も多く、創業以来3年間で返品タイヤは10万本にも及びました。

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中には品質保証制度を逆手にとって故意に破損させて取替えを要求するケースや2度、3度にわたる交換もあったそうですが、誠意を持って対応したそうです。

 

ある重役は後にこう振り返っています。

「みるみる返品の山を築いたが、顔色一つ変えず、あくまで品質責任保障制を堅持する不敵な社長の表情に頼もしさを覚えながえら、内心とても恐れかしこまった。」

 

その後、正二郎と技師の絶え間ない努力と設備充実のための資本投入により、不具合、返品は減少し始めました。

そして1932年には自動車メーカーフォード本社の製品品質試験に合格しました。

 このことは日本フォードへの納入適格品と認められたことを意味します。

その後には日本ゼネラルモータースからも納入を認められます。

その後事業は順調に発展して1日に1000本近くの製造本数となり、本社事務所に作った仮工場では間に合わないようになります。

そこでブリッヂストン社は用地を買収し、石橋家所有地も加えて久留米に工場を建てることにしました。1934年には本工場として本格稼働を開始します。

日本軍に占領された敵国ライバル社工場

その後、1939年に第二次世界大戦が勃発。正二郎が50歳の時でした。

戦時中は英語の使用を制限する動きがありました。

この為、1942年に社名をブリッヂストンから『日本タイヤ株式会社』に変更します。

第二次世界大戦中正二郎は社長として、リーダーとして、すばらしい判断を数多くしていますが、特筆すべきはジャワ島での出来事です。

グッドイヤー ジャワ工場の委任

1942年3月、日本軍はオランダ領 ジャワ島へ進出し、グッドイヤー社のジャワ工場を占領して取り上げました。

翌月、陸軍省から『日本タイヤ』にこの工場の経営が委任されます。

委任を受けた日本タイヤは10名の派遣員を現地に送り、被害を受けた設備を修理し、8月には工場を通常通りに稼働させ始めます。

 

この時正二郎は

「この戦争は敵が強大国であるから最後の勝利は予測しがたい。」

「もし戦争が不首尾に終わって引き揚げるような場合は、軍は勢いに乗じてどんな命令を下すかも分からないが、工場設備を完全なままにしてグッドイヤーに返すこと。

 

と指示を出しました。

敗戦後、派遣された社員たちはこの指示を守り、経営委任された時よりも整備の行き届いた状態でグッドイヤーへ返還しました。

後にこの事がグッドイヤー社との業務、技術提携交渉にもつながることになり、ブリヂストン発展の為の大きな要因となります。 

戦後の経営危機と技術の向上

敗戦後、輸出事業の全喪失などもあり、売上高の1.6倍という甚大な損失を生みましたが、正二郎の指示の元でいち早く生産の再開、増強、技術の近代化が行われます。

タイヤを作っていた久留米本工場は終戦から2か月足らずで生産を再開します。

1948年に駐留アメリカ軍から古タイヤの再生加工の委託を受けます。1949年東京に建設されたタイヤ再生、修理工場は最新設備が準備され、アメリカ人技術者の指導の下で社員が働きました。

1957年にはアメリカとの契約が終了し工場は閉鎖。

この時に日本タイヤの社員達は最新の再生加工技術や新しい素材の製造技術を学ぶ事ができたので、ブリヂストンのタイヤ製造技術は大幅に向上しました。

この間1951年、正二郎が62歳の時には社名を再び日本タイヤからブリヂストンに変更しています。

グッドイヤー社との 提携

当時世界一のタイヤメーカーであったグッドイヤーは日本市場への進出を計画していました。

1949年にグッドイヤー社のリッチフィールド会長が日本に訪れ、正二郎と会見。

この時、ジャワ工場の返還についての謝辞を述べられます。

その後、リッチフィールドは久留米工場を見学し、予想以上の規模と従業員の懸命な働きぶりに感心し、帰国後ブリヂストンとの提携の意志を固めます。

正二郎はアメリカグッドイヤーの本社に招かれ、業務提携交渉の後、同社の工場へ訪れました。

帰国後、自社の久留米工場を視察し、

「久留米工場は時代遅れで作業能率は1/5以下である。

技術も20年遅れていると痛感し、これを進めるためにはグッドイヤー社との技術提携が最も得策である。」

と決意します。

その後、ブリヂストンはグッドイヤーとの業務、技術提携を成立させます。

その後も何度か経営危機はあったものの、レーヨンタイヤの開発、ナイロンタイヤの開発と成功を重ね、ブリヂストンはどんどん成長します。

高度経済成長の中、海外での製造販売にも力を入れ、さらに発展を続けます。

 正二郎の引退、死去

1973年5月15日、創業以来42年間、最高責任者として当社を指揮した正二郎は会長から退く決意を表明しました。

全従業員に向けられた最後の営業方針は以下の3点でした。

  1. 株主には適正利潤をもって酬いること
  2. ユーザーにはつねに独創の技術をもって満足を与えること
  3. 従業員には愛情と理解とをもって心から円満に結び合うこと

その後、正二郎は数年前から患っていたパーキンソン病により歩行が不自由になり、自宅で静養、治療していましたが、1976年3月に入院。
同年9月11日、家族や仲間の見守るなか、87歳でこの世を去りました。

正二郎の葬儀には9月28日の社葬には4500人が霊前に献花し、10月5日久留米市で行われた久留米市民葬では県立体育館に4000人が訪れたそうです。

 

様々な発想や決断を繰り返し、時には強引に物事を推し進めた石橋正二郎。

その行動の裏にはいつも皆の幸せを願う利他の精神があふれていました。

今、ブリヂストンのタイヤは(前年2015年実績)

世界シェアでNo.1です。

世界中で受け入れられる商品はそんな正二郎の利他精神の象徴と言えるでしょう。

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参考出典:

www.bridgestone.co.jp

 

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